2013年1月10日木曜日

セクマイ×貧困 トークイベント 記録

くるりん大阪主催イベント「セクマイ×貧困」開催時に、会場で作成された要約筆記のテキストを、後日講師の方に校正して頂いたものを、イベントの記録としてこちらのブログで公開致します。無断転載等はご遠慮下さい。
このテキストは厳密な文字起こしではありませんし、プライバシーの問題であえて削除している箇所もあります。あくまでおおまかな記録としてご覧下さい。
(なお、セクマイ×地域の方は、現在同様の手法で校正作業中で、追って公開予定です。)


【セクマイ×貧困〜不安とあやうさと、私たちの「つながり」】
2012年11月24日  16:00〜18:00


遠藤

本日は三連休の中日にご参加いただいてありがとうございます。

司会を担当するくるりん大阪の遠藤です。

(配布資料の確認)

本日の趣旨説明を村木の方から。



村木

くるりん大阪の村木です。

2012年、自殺防止の大綱に性的マイノリティという言葉がはいった。「よりそいホットライン」にセクマイの専用回線ができた。自殺予防など、セクマイのセーフティーネットがやっと整備されてきた印象。

が、ニュースの中で生活保護の不正受給のバッシングをみながら、心がちくちくする思いがする。なぜなら、生活保護を受けていたセクマイの友達を知っているから。貧困問題が語られる時に、セクマイの話が出てこない。

今日はきっかけ。セクマイと貧困について、これから一緒に考えていければ。

※参考:企画の背景




遠藤

今日は、前半はゲストと司会のトーク、そのあと会場も交えてフリートーク。

休憩もとるが、しんどくなる話もあるかもしれない。随時、休憩をとって、リラックスして参加を。



今日のお約束

無理をしない/無理をさせない。

個人的なことについて訪ねられても、話したくないことは話さなくてかまいません。しんどくなったら、いったん休憩してもOKです。

参加者の話は、原則ここだけの話。

今日ここの場所でみききした個人情報は、ここだけの話にしてください。(ツイッターをやっている人なども、中継はなしで)

ここには様々な人が参加しています。

自分とは異なる価値観(恋愛観・セクシュアリティ・ジェンダー・それぞれの課題など)をもった参加者との話を尊重し、批判&決めつけをしないように気をつけましょう



ゲストの紹介を。

みなさんからみて右手が、倉田めばさんです。フリーダムの代表で、薬物依存回復施設の大阪ダルクの代表です。

むかって左側が、御苑生笙子さんです。セックスワーカーの自助グループのスタッフです。



さいしょは、村木さんと笙子さんのトークです。



村木

よろしくお願いします。笙子さんに話していただきたいと思ったのは、共通の友人のことです。



御苑生

御苑生笙子です。本名ではなくセックスワーカー時代の源氏名で、セックスワーカーのための活動をする時に今でも使っている名前です。今日は村木さんと共通の知人、しげさんというゲイ友の話をしたいと思います。

しげさんとわたしは、岡山でセクシュアルマイノリティのミックスの団体、P3を一緒に運営していました。

知り合ったきっかけは、わたしの高校の同窓生がわたしの勤めていたギャラリーで写真展をやることになり、写真展ついでにギャラリーのプロジェクターでレズビアン映画の上映会を企画したことでした。

写真展をやる友人がレズビアンであることから生まれた企画でしたが、当時レズビアンの映画はまだ少なく、ゲイの映画もあわせて上映することにしたのですが、レズビアンとバイセクシュアル女性がゲイ映画を選ぶのは難しくアドバイスをしてくれる人を探していた時、ギャラリーに出入りしているヘテロ男性がカムアウトしているゲイの友人としてしげさんを紹介してくれました。

なぜか最初から気が合って、急速に親しくなり近所に住んでお互いの家を行き来して家族のような関係になっていきました。



村木

当時、岡山のセクマイのグループはとても活発だと思っていた。



御苑生

岡山では、ゲイだけで集まっていると人数が少なすぎて、ゲイ男性が始めた団体だったものが自然とミックスになっていたように思います。それがかえってよかったように思いますね。性別や性的指向がいろいろな人が集まったことで面白いことがいろいろできたと思います。

集まっていた場所がたまたま岡大医学部の近くだったので、GID関係で岡大に通っている人に同じ立場の人と出会うきっかけを作ってあげたいと紹介されることがあったり、女物の水着を着て泳ぎたいけど一人では難しいという人がいるので、好きな性別の水着で存分に泳ぐために島の民宿を貸し切って合宿をしたり、ドラッグクイーンをやってみたいと言い出したことが、大人気イベントに成長して連続開催になったり。

当時わたしは一人親で子どもを育てていたんですが、そのごちゃごちゃした人の中ですごくいいかんじで子育てもできてたと思います。

参観日とか入学式卒業式にもすごい人数で全員親気分で行きました。



村木

私が笙子さんと会ったのは、岡山ではなく京都でした。



御苑生

当時付き合っていた彼女が京都に住んでいたこともあって、わたしは岡山に住みながら京都の活動に参加していたんですが、その流れで京都に引っ越すことになり、岡山の活動からは離れたんですが、しげさんとの関係は続いて、その後あたしが大阪に引っ越したあたりでしげさんもまた近所に引っ越してくることになり、またご近所で密接に付き合うことになりました。

あたしは岡山>京都>大阪という引っ越しでしたが、しげさんは岡山>島根>大阪という引っ越しで、また徒歩圏内のご近所生活になったわけですが、あたしは恋愛がらみの引っ越し、しげさんは恋愛引っ越しではなかったんです。

しげさんは高専を出た後大学、大学院と進学していて、奨学金を満額借りた後、授業料が払えなくなって中退になったんですが、知り合った頃は大学院時代で、生活が大変そうだなあという印象でした。

しげさんは両親が高齢になってから生まれた長男で、優秀で期待されてる男の子だし、長男プレッシャーが強かったと聞いています。

しげさんの島根への引っ越しは、ご両親の介護のためでした。中退後も就職しないでアルバイト生活を続けていたことからの行き詰まりも関係があったと思います。



村木

しげさんは島根に引っ越しましたが、実家にはいられなかった?



御苑生

お葬式の時に何人もの人が言っていた言葉を使うと、しげさんはすごいラブリーな人。どこに行っても愛されていたと思います。

それは実家のある街でも同じだったと思う。

しげさんは、町内が親戚だらけの実家に住んで、それぞれ違う病院に入院してる両親の面倒を見ながら、近所づきあいも親戚づきあいもこなしながら暮らしていました。

親族家族にカムアウトはしていなかったけど、地元のゲイの人たちとも交流していたと聞いています。大阪のお別れ会にそこで出会った人が来てくれました。

しげさんは知り合う人の言葉を先入観を持たずにちゃんと聞いてくれる人だった。

キュートなエピソードをひとつ。

P3で「ゲイとかレズビアンとかいう言葉を使わないで、自分のセクシュアリティを語ってみる」というワークショップをやったことがあったんです。

欲情に性別が関係無いというあたしの話を聞いて、それを自分に引き寄せて考えてくれて「蟹江敬三にペニスが無かったとしてもイケるわ〜」と話してくれました。

そんなふうに考えてくれる人って、本当にいなかったんですよ。

当時ひどかったバイセクシュアル・バッシングで疲れ気味だったあたしには嬉しい話で、バイセクシュアルの集まりでよくこの話をしました。

後々「蟹江がタイプエピソード」が一人歩きして、新しい彼氏ができるたびに「蟹江敬三に似てないやん」と言われまくって苦情を言われましたけど。



村木

しげさんは、ちょっと鬱だったと聞きました。



御苑生

後で知ったことですが、知り合う前から鬱傾向があったようですね。岡山時代はそんな印象はほとんどなかったですが、長男プレッシャーの話や両親にカムアウトはできないという話をしていた時には重い苦しみを感じました。



村木

私の記憶の中のしげさんはおだやかで、いつもニコニコしていました。



御苑生

両親が亡くなった後、1年ぐらい経ってから、田舎だから仕事も無いし、このまま実家のある街でクローゼットとして暮らすことはできないという結論に至って、またわたしの家の近所に引っ越してくることになりました。



村木

しげさんは生活保護を受けていたそうですね。働くのは難しかったのでしょうか?



御苑生

引っ越してきた頃はもうかなり鬱がひどかったし、介護生活でブランクもあったので、普通に働くのは無理なかんじでした。

セクマイの友人が共同経営している会社で週何回かアルバイトをしていました。

その収入だけでは生活できない程度の収入だったし、奨学金の支払いもあったし、実家が借地の上に建っている家で家の取り壊しをするお金が無くて借地代を払い続けていたので、貯金をくずして生活している状態でした。



村木

しげさんは、自分の生活をブログに書いていましたね。



御苑生

そのアルバイト先の会社が無くなる頃としげさんの鬱が悪化して家から出る頻度が落ちる頃がほぼ同時に来て、それでかなりしんどい中で無茶な就職活動をしたんですよ。

年齢的に40代が迫っていたので、スーツを着る仕事の正社員になるラストチャンスだというかんじで追いつめられているなあと感じていました。いきなり無理しないでアルバイトからやっていったら?と周囲は思っていたんですけど、本人が必死だったので、スーツ生活に無縁だったしげさんを岡山時代からの知り合いのFTMの会社員たちが安いスーツの買い方からネクタイの選び方までサポートしたりして、それはちょっと微笑ましかったです。

就職したのはアフラックで、そんな仕事できるのかなあとわたしたちは不安に思っていましたが、本人が就職しないと、ホームレス、生活保護に、と思い詰めていたので…。

その就職は研修1ヶ月を含めて2ヶ月で終わりました。辞めた後は、仕事の疲れと挫折感でへとへとになっていたように思います。

それで生活保護ということになるわけですが。

最初一人で申請に行って断られたんですよね。それをセクマイ関係の活動の中で知り合ったレズビアンの友だちがサポートして受給にこぎつけました。

鬱で弱ってはいるけれど、しげさんは根っから親切な人なので、大阪に引っ越す直前から始めていたブログに、生活保護の申請のことなどを含めて生活のことを詳しく書いてたんですが、そのブログのコメント欄があれたことがあったんですよ。生活保護を受給している人が、ゲイバーや映画に行っていることが許せない、みたいな。「受給者がゲイバーに行くべきでない」と書いた人とわたしのブログ経由で交流できて、その人もシングルマザーで、自分もしんどくてああいうことを書いてしまった、と謝罪コメントしてくれた。

だから結局和解できたのだけど、それ以降長い間ブログは閉じていたし、完全に公開する形で受給のことは書かなくなったと思う。

受給していることを明らかにすると妙にこじれることがあるということを実感した出来事でした。

葬儀の時、生前は会ったことが無かったたくさんのしげさんの友だちと知り合ったんですが、しげさんが仕事をしているふりをして交流している人たちもかなり居て、生保受給を隠していたいと思うことも多かったのだなあと思うと切なかったし、それを知ったことでずいぶん苦しみました。



村木

ちょっとかけあしですが、しげさんが亡くなった時と、その後の話をお願いします。



御苑生

役所の生活保護の担当者から突然電話がきたんです。役所のほうに郵送で大きな封筒がきて、あなたに渡してほしいと書いてある。担当者さん宛の手紙もあってそれには遺書めいたことが書いてあり、連絡したが出ない。今からアパートの鍵を開けるので来て下さいと言われました。

自殺の予感は全然無かったです。

昼の12時に起きて、夜中の12時に寝るまで、起きている間はずっとベッドに座ってしんどいなあと思っていると言ってたし、死にたいは口癖みたいに言ってたし、鬱がどんどんひどくなっていってる、大阪に来た頃よりずっと重苦しいかんじになっているというのは分かっていたけど。

だからこれは自殺未遂で、アパートに行ったら自殺に失敗してるしげさんに会うのだとなぜか思い込んで行ったんですけど、でも失敗してなかった。自殺していました。

わたしたちセクマイは仲間の死に慣れていて、ゲイであることを隠している親が来る前にゲイバレしそうな遺品を片付ける、というようなことも何度も経験しているので、しげさんの突然の自殺の時もコミュニティの仲間で助け合っていろいろ手際よくできました。

なんでこんなに慣れているのか。親に隠すことになれているのか。と悲しくなりますけど、あの時は助かりました。

その後すぐ田舎からしげさんのお姉さん夫婦が来て、簡単にお葬式をして火葬を済ませて帰ることになったんです。

そういう時、「ここから先は血縁者だけでやりますので」と言われてしまうことが多いんですけど、お姉さんたちはわたしたちを頼りにしてくれたし、大阪での葬儀にずっと居ていいと言ってくれたんです。

突然のことだったのにたくさんの仲間が来てくれました。大阪の人だけでなく、島根岡山からも。

簡単な葬儀のつもりで小さい部屋での集まりだったので、そこから人が溢れていました。

それは、いままでのわたしの経験したゲイの葬式とは違うものでした。

今まで経験したセクマイ仲間の葬儀は、もし参加できたとしても、どこで知り合ったかも言えず、おねえことばも隠し、死因も隠してというものばかりでしたから。

火葬場にも一緒に行かせてもらって、火葬を待つ間、昔P3でやっていたように輪になって座ってしげさんとの思い出話もできました。

しげさんがゲイであることをあけすけには語らないけれど嘘をついて隠すようなこともしない話をするあたしたちをお姉たちは見守ってくれて、「おとなしい子だと思っていた弟に社交的な面があることを知ることができてよかった」と言ってくれました。

その言葉をきっかけに、しげさんはお姉さんを大好きで、大好きだからこそカムアウトできないという苦しさを語ってくれたことがあると伝えることもできました。



村木

話はつきません。笙子さんと下打ち合わせした時は、半日くらい話続けてしまいましたね。



御苑生

こういうことをしたら自殺を止められる、鬱を乗り越えられる、自死された後こうして立ち直りました、というような素敵なアドバイスはわたしにはまだありません。

しげさんに死なれた時、あたしは絶望したんですね。

それまでわたしたちは大丈夫だと思っていたんです。セクマイでない人と比べたらわたしたちには生きづらさがあるけれども、生きづらいからこそ仲間と出会えているし、つらい経験から学んだことも多いから。

だからこそあたしたちは困難を乗り越えることができると。

その自信みたいなものがしげさんの死で消えてしまったんです。

しげさんは活動歴も長いくて知識も豊富だし、あたしの何倍もコミュニケーション能力があるし、愛される人柄だから、しげさんが死ぬなら、だれが生き延びられるのだろう、と思いました。

その後の3年間、自信を失ったまま彷徨っていたと思います。

でもその彷徨いは、つらいばかりではなかったです。いい彷徨いでした。

一番変わったことは支援者との関わりです。

わたしは元セックスワーカーでセックスワーカーの自助グループを運営していますから、支援者というと捕まえてイヤな施設に入れる人という印象しかなかったんですね。

でも彷徨う中でいろんな施設の方と出会って、現場にもどんどん連れて行っていただいて、印象はどんどん変わったし、当事者以外の人が力になりたいと親身に思ってくれているを信じることができました。

わたしが紹介できることはそれぐらいで、本当にささやかなことだけです。

今こういうふうに彷徨っていますという途中経過の報告のようなものですね。

このあとの時間で皆さんの「こうしてみたけどよかった」「こういう窓口があった」「こんな法律がつかえた」というようなお話が伺えたらいいなあと思っています。

もちろん「こんなことやってみたどダメだった」とか「つらくて苦しくて何もできません」という話もできたらいいなあと思っています。



村木

ありがとうございます。拍手を。

皆さん、深呼吸を。体をほぐして。

(休憩)



遠藤

再開します。自分とめばさんで話をします。めばさんは大阪ダルクのセンター長。



倉田

ダルク(DARC)とは、Drug Addiction Rehabilitation Centerの頭文字をとってダルクと名付けられました。2012年末現在、全国数十か所に点在する薬物依存症からの回復施設です。自助グループではありません(薬物依存症者の自助グループとしてはNAというグループが全国にあます)スタッフはその多くが回復をした薬物依存当事者が務めています。わたしも、薬物依存の当事者です。現在大阪ダルクは、デイケア、入所施設があります。Freedomというのは、大阪ダルクの外郭団体で、薬物依存症の家族の相談やグループワーク、薬物乱用防止の啓発活動、弁護士会や刑務所や保護観察所などとの連携など、薬物関連問題についての様々な活動を展開しています。最近は、脱法ハーブの相談が急増していますね。



遠藤

薬物依存について、いろんな情報だと、いろんなこと、複合的に困っている人が、ダルクに出入りしている印象をうける。セクマイについて何か気づくことはありますか?



倉田

大阪のダルクは、セクマイ率が結構高いダルクだと言えるかもしれません。MTFもFTMも今まで何人かつながってきました。ゲイは最近結構多いですね。一方でレズビアンの薬物依存者は今のところ、ほとんどつながってきていないですね。レズビアンであることも、薬物を使っていることも、カミングアウトしにくいのかな?ゲイの薬物依存者はHIV陽性者の人も多いですね。今の日本じゃ、3重のマイノリティ。覚せい剤で警察に逮捕されて、ゲイであることもHIVであることも家族に知られちゃうこともある。セクマイの薬物依存者の家族のサポートというのも今後重要な課題でしょう。家族の衝撃も半端じゃない。



薬物依存症の回復者コミュニティでは、回復すると男は男らしく、やたらとマッチョになりたがる回復者がけっこういます。薬物を使っている時に男性としてのプライドがずいぶん傷つけられてきたので、巻き返しをはかろうとしているのでしょうかねえ。このような土壌の中でセクマイの薬物依存者が一緒に回復をはかっていかなければいけません。たまにホモフォビア、トランスフォビアにさらされることもあります。

大阪ダルクのデイケアは本当に狭いスペースに十数人~多いときは20人以上の薬物依存者が毎日朝から夕方まで、顔を突き合わせて、プログラムをうけています。そういうミックスなセンターに、例えばゲイのダルクメンバーが1人いるのと複数いるのとでは、ずいぶん状況が変わってくるようなこともあるわけです。牽制をしたり、セクマイであることをおおげさにアピールしたり、つるんだりといったことですね。



カムアウトの問題もあります。薬物依存の回復者コミュニティにはクローゼットの状態にあるセクマイの薬物依存者もいるのではと思います。数の把握ができるわけではないですが。ですので、カムアウトしているセクマイの薬物依存者たちだけで誇張的に盛り上がりすぎると、クローゼットの人は引いてしまう。そのことが、回復の場から去る原因になったりしたら、いやだなと思います。日本では、地域の中で薬物依存から回復する場は本当に限られていますからね。そんなこともあって、わたしは、ここ何年かの間に、LGBTの場でアディクションについてお話をさせていただく機会は何回かありましたが、ダルクの場でLGBTについて話すことについては消極的でした。冗談っぽくお尻や胸を触られたことも何度かあります。ですが、ダルクでセクマイの薬物依存者が年々増加してきており、いじめや誤解を防ぐためにも、スタッフやダルクの利用者の皆さんにも、LGBTやHIVについて基本的な知識を持って欲しいと最近思っています。ついこの間あった仙台ダルクのフォーラムでは、はじめて「薬物依存と性的マイノリティ」というテーマで話をしました。



遠藤

セクハラの話は、相手がトランスだから「触ってもいいんだ」と思われているようなところもあるようにおもう。薬物にセクマイがはまるきっかけ、年代などは?



倉田

やはりセックスドラッグとして使われることは、とくにゲイの間では多いようです。「5-meo」という薬物が一時流行った。今は禁止されているが、「5-meo」をゲートウェイとして覚せい剤に移行した人もいました。もちろん覚せい剤はセックスドラッグです。セクマイとして生きづらさからの薬物使用、自己処方としての薬物使用というのはよくある話です。自殺率の高さも最近取りざたされていますが、薬物依存というのは慢性自殺。自殺、事故死で亡くなる人も多い。わたしの周りで1カ月1回の葬式が、4~5カ月続いたこともあった。



遠藤

自殺の話で思い出したのが、4年くらい前に、東京で石原知事が再選されたときのこと。、開票日のあたりに、自分の友達が亡くなった。自称「ハッテン場のフィールドワーカー」で、彼はハッテン場にいりびたっていた。まわりは、彼はセックスが大好きだとみていた。彼についてはいろんな大変な話があったけれど、そのひとつは、彼が麻薬を売っていたということ。それと、すごく驚いたのが、ゲイのサイトで、自分の写真をいっぱい売っていたこと。かっこよかったから、ツイッターでは、彼の写真が出会い系のサイトのアカウントの画像として今でも使われていたりする。めばさんの話を、彼のことを思い浮かべながらきいていた。薬物以外にも、セックスにはまってやめられないとか

いろいろ大変・・というのが、自分の中の薬物依存のイメージ。いろいろからんじゃったときに、どうしたらいいんだろう。ダルクに入っても、うまくやっていけない人もいるのでは。そのあたりどうですかね?



倉田

いろいろと大変なことはあるとは思います。HIVも現在ではいい薬ができてきていますし、死に至る病というイメージではない。もちろんゲイであることが、死につながる原因になることは少ないのではないかと思います。ですが、薬物依存は慢性自殺であり、遅かれ早かれ死を避けられない場合が多い。ゲイであることよりも、HIV陽性者であることよりも、薬物を使っていることを一番知られたくないと言ってた人がいました。



あと、何年も前に聞いた話ですが、HIVの薬は毎日決まった時間に規則正しく飲まないと、その薬が効かなくなるし、その人からHIVに感染した人は、その薬に関しては最初から効かなくなるということ。だから、覚せい剤などの薬物を使用しているひとは、なかなか規則正しくHIVの薬を飲めないから、薬物を使用している間はHIVの薬を投与できないと、言ってましたね。今はどうなのでしょう?



セクマイに限った事ではありませんが、薬物の問題を抱えた人は、何はともあれ、薬物を使わない新しいクリーンな生き方を優先しないと、結局のところ他の事もほとんど上手くいきませんね。第一のことは第一に、です。セックス依存症も薬物依存症と似たような回復プログラムはあります。



ダルクでやっていけるかどうかは、会ったことがないのでわかりませんが、よそでもなかなか受け入れられない人を受け入れるということは、その人が施設できちんとやれない場合、受け入れられなくなるということも同時に含んでいます。この人をここにこれ以上とどまらせておいても、この人にとっても良くないし、これ以上支援できないんだという限界設定がなければ、サポートはできません。



だけど、ひとつの支援団体で上手くいかなかった人に対して、すぐに次の受け皿があると云うのが、本来の社会の在り方だと思うのですが、依存症の分野ではまだまだ居場所が足らないのが現状です。ただ、そういった社会資源をつくり出していくには器とお金と覚悟が必要になってきます。お金をそんなにかけないでできるセルフヘルプグループの存在は重要ですね。



遠藤

最後に。回復するために必要なものってなんでしょう。LGBTならではのものはありますか?



倉田

LGBTならではというものは、特にないとおもいます。依存症のセルフヘルプグループのミーティング(大阪ではレインボー+アディクション・ミーティングがある)には、セクマイのスペシャルミーティングがありますが、そこに参加しているメンバーの多くは依存症のミックスのレギュラーミーティングにも出ている。薬物依存症のメンバーというのは、薬物というところで同じ問題を抱えているので、それなりにつながりは強い。薬物依存者はやはり社会から疎外されている。セクシュアリティ以前に、そこに共通点がある。回復に必要なものは回復のプログラムと仲間同士のフェローシップの二つです。



もちろん、偏見や誤解にもとづく様々なことが起こります。起こらないような配慮も大事かもしれませんが、起こった後、どのように速やかに対処するかのノウハウの蓄積が重要だと思っています。



遠藤

トークセッションに移ります。笙子さん、めばさんの話を聞いて、いかがでしたか?



御苑生

セクハラが無い世界なんてないということは分かっていましたけど…やはりセクハラの話はショックでした。

「人権活動をしていてもセックスワーカーに差別的な発言をする人」との出会いが多いので、めばさんが当事者として語ることが怖かったというお話は身近な話だなと思いました。



倉田

様々なマイノリティや障害者、社会的困難者のなかで、薬物依存者とセックスワーカーは、当事者として公の場やメディアで、露出しにくいという面が確かにあると思います。スーザン・ソンタグが『隠喩としての病・エイズとその隠喩』のなかで、書いている下記の言葉をよく思い起こします。

「かっては病気に闘いを挑んだのは医者であったが、今では社会全体である。要するに、戦争というものが集団のイデオロギー的動員のための機会になってくると、『敵』の打倒を目標としてかかげる改善キャンペーン全部に使える隠喩として、戦争という概念が有効になってくるのである。過去には貧困に対する闘いがあったが、それが今では『ドラッグに対する闘い』とか、特定の病気(たとえば癌)に対する闘いにさま変わりしている」



ダルクにつながってきて、薬物も止まり、長い時間がたった人がある日死ぬ。原因は分からない。貧困というのは、単にお金がないということだけではなく、社会的なつながりをなくしていくということでもあるのかもしれない。一番わかりにくいのは、表面的にはつながっているが、その人にとっては本当の意味でつながっていなかったりしていることに、周囲の人が気づかない場合でしょうね。

自分のことを考えます。これから、年をとっていき、そう遠くない未来のこと。LGBTや薬物依存者に限ったことではないけれど、人は年をとればとるだけ、いろんなものを喪っていく。ストレスから逃れる最終的な手段として薬物依存者のわたしには、スイッチが一つしかないことがわかっている。薬物です。考えても仕方ないことですが、でもやはり、使いたくはないなと。



村木

人生の何かの節目、というのがひっかかっている。

しげさんも、親の介護が鬱が重傷化したきっかけ。

例えば職場で、自分の同期や同僚が子どもや家族などの話をしている時に、セクマイである自分のやりがいや生きがいは何だろうと思う。そうしたところのすぐとなりに、鬱や、薬物があるのでは。

自分も去年休職したが、その時、しげさんの部屋の隣にいる感じがした。

では、参加者の方で、お話をされたい方がいれば。



(参加者の方の話)



御苑生

現役セックスワーカー時代、薬物をやっているワーカーやお客さんとの出会いはありましたが、今話してくれた人とは感覚は違っていました。私は薬物をやっている人がいたら、それがお客さんであってもワーカーであってもその店はすぐ辞めて違う店に移っていましたね。

薬物をやっている人を捕まえる過程で、店が摘発される可能性があるから。

その人を助けるとかは全然考えられなかった。

自分を守るのが精一杯。お互いに分断され、助け合えない状況だと思います。



薬物を止めたい人の団体はある。セックスワークを辞めたい人も婦人保護施設に入ることもできる。

でもセックスワークを労働だととらえて、安全に働くための助けをしてくれるところはありませんね。

セックスワークを辞めたい人のサポートと言ってもセックスワーカーだった過去を隠さないと再就職が難しい状況を変えることには取り組んでないですから、そこもしんどいとこです。



参加者からの質問

薬物依存の当事者のサポートをされているとのことですが、その家族、周囲の人たちをサポートするところはないのか?



倉田

フリーダムでは電話相談をやっています。薬物依存者の家族の相談も電話で受け付けています。電話相談の受け付けは、毎週土曜日 午後3時~7時

06-6320-1196

http://www.freedom-osaka.jp/?page_id=9



また、家族の来所面接相談も受け付けています。問い合わせ、予約は

月曜~土曜 10時~18時 06-6320-1463(Freedom)

LGBTの薬物依存者の家族の方はわたしを指名していただいても結構です。

また、家族のグループワークもやっていますので、紹介いたします。



御苑生

しげさんが自殺した後、遺族仲間ではない人と話をしたいと思ったことがあったんですけど、わたしが参加できる自死遺族の集まりというのが難しくて。

遺族には友だちは含まれない、血縁者だけ、婚姻関係だけというところもあったし、お友だちも参加できますというところだって、どうせそこには全員へテロだろう、自分がセクマイであることを隠してヘテロを演じてながらしげさんを失ってつらい話ができるだろうか?と思うとどこにも行けなかったです。

そちらの集まりはゲイフレンドリーですかと事前に問い合わせるなんてことは元気なときにしかできないですけど、自死遺族の会に参加したい時に元気なんてないわけで。

さっきのめばさんみたいに「家族ってどういう範囲で?」って言うだけで、同性だけどカップルかもってとこまで含めて回答してくれる人にたまたま当たればいいですけど。



セクマイ固有の問題はコミュニティーの狭さもありますよね。

恋人と別れると2人で出入りしていたコミュニティーに近づけなくなり、他に選択肢も無いから孤独になってしまう。

しげさんとあたしはゲイ男性とバイセクシュアル女性の家族的な強い繋がりで、恋愛関係ではなかったですから、そういうふうに恋愛がらみで疎遠になることはなかったですけど、最後鬱がひどくなっていくしげさんをうまくサポートできなかったという後悔は今でもあります。

溺れる人を助けに行って一緒に溺れてしまう恐怖のようなものだったかも。



村木

自分が一番しんどい鬱状態だった時のことを考えると、すごく孤立していて死にそうだった。友達は沢山いるはずなのに、その時は助けてと手を伸ばせなかった。少し元気になってきた時に、ふと友達がいたことに気づいた。一番しんどい時は人の繋がりに気付けなかったし、友達も下手に手を出せなかったのではないか。

最後に感想を一言ずつ。



御苑生

セックスワーカーであることやセクマイであることを明らかにして語る機会は多いんですけど、たいていアウェーに乗り込んで行って話すかんじなんです。

でも今日はアウェーな感じではなく、ホームな感じで話せました。

しげさんの命日にはいつも小さい集まりをしていますが、今日はいつもより開かれていて、でもホームなかんじの場所で話すことができて嬉しかったです。

ありがとうございました。



倉田

わたしは、自分がマイノリティであるがゆえに、いろんなところで傷ついたり、偏見を持たれたりすることもあって、それをどう跳ね返していくかを考える際に、周りや社会が変わってほしいと願うことも大切だけど、それ以上に自分がどう変わっていくか、そのスキルを持つと云う事が、大事だと思っています。それを今後もやっていきたい!



遠藤

生々しいとおもいながら聞いた。自分の危うさもあるのだが、友達などの危うさも感じている。それでも、今ある中でやっていくしかないという重たさを改めて感じている。



村木

長い時間ありがとうございます。

語りきれなかったところは交流会で。

ゲストの方に拍手を。

ご来場ありがとうございました。



以上

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